この度、第二次世界大戦時の仏独関係を考察する機会に恵まれました。こうした事をおこなうのが慶應に入学した目的の一つでもあったため、目論見通りの良い収穫となりつつあります。
1940年にナチス捕虜として「ゲルリッツ第8A捕虜収容所」に移送されたMessiaenたち(チェリストのパスキエらも含む)は、約一年後にフランス政府の高官によるナチス側への交渉により、解放された筈です。彼らはフランスの文化人であり、軍楽隊であったとみなされ、(つまり、戦闘員でなく)ナチスも開放を承諾したのでしょう。
そのため、ノルマンディー上陸作戦による「パリ解放」の約一年前には、既に捕虜収容所から解放されていますが、未だ終戦していないナチス占領下のパリにおいて、Messiaenはパリ音楽院の教授職に任命されている時系列となります。
その背景を今一度、仏独関係の背景をさらい直した上で見直してゆくと、意外にも大事な部分を読み飛ばしていたことに気付かされました。
ヴィシー政府は周知の通り、ナチスの傀儡政権です。ヴィシーはユダヤ人排斥の片棒を担ぎ、ユダヤ人著名人たちを迫害していったようです。
そのユダヤ人たちの中に、パリ音楽院の和声科教授のアンドレ・ブロフ(生年不詳)もおり、彼はパリ音楽院教授の職を解かれたため、後任には当時32歳だった若手のO.Messiaenが抜擢されたようです。
パリ音楽院の教授職とは名誉な事ではありましょうが、皮肉な事にそれをもたらしたのは、ナチスの反ユダヤ人法だったという訳です。
この時、パリ音楽院にはイヴォンヌ・ロリオ(1924-2010)が在籍しており、ここで二人は出会ったという事になるのでしょう。
イヴォンヌは言わずと知れたMessiaenの後妻となるピアニストです。
こうした道を経て、捕虜生活から帰還し、家族の元へ帰り、教授職にも就けたMessiaenではありますが、捕虜生活の食糧不足による栄養失調と、極寒の地に幽閉された一年間での凍傷により、健康状態は酷く、且つ先妻のクレール・デルヴォス(1906-59)も精神の病に罹り入院を余儀なくされており、Messiaenは、平日はパリ音楽院で学生を教え、休日には聖トリニテ教会にてオルガニストとして勤めるなどし、パリ解放までは薄給のもと、一人息子を男手一つで育て続けたのでした。
この3年後には私の研究作品である《神の現存の三つの小典礼曲》(1943-44)が初演される運びとなります。
ここに至る道筋へは、複雑な仏独の政治的背景が絡み、凄惨な第二次世界大戦が起こりますので、個人的にはそうした事実関係を、或る意味「傍観する事」に躊躇していましたが、今年は意を決して、この部分を整理してゆく年とする事にしました。
パリ音楽院では、イヴォンヌをはじめとした優秀な音楽家を多々育ててゆくMessiaenです。
そうした道筋、即ち1940年代の彼の通った道を、更に入念に視てゆく年としたいと思います。
追伸: 3日前より、私、酷い風邪で、声が出ないわ、頭痛いわで、文章書ける元気有りません…。もう少し薬飲んで休養します…。
Julia.T.A
Le 25 fev. 2019 14h01