「オリヴィエ・メシアンの妻」といえば、後妻のイヴォンヌ・ロリオの事ならば
わが国でもそれなりに知れ渡っているものと思われますが、
先妻のクレール・デルヴォスについては、余り御存じない方が多いのではないかと推察します。
そもそもメシアンが初来日したのは1962年、氏が54歳の年です。
この初来日が、事実上の後妻イヴォンヌとの新婚旅行だったといいますので、
日本にとり、先妻の存在よりも、このイヴォンヌが「メシアン夫人」という印象が
色濃いのでしょう。
更に第二次世界大戦勃発前の記録ですので、日本ではどうも芳しい和書における記載を見かけません。
邦訳資料を当たりますと、殆どクレールに関する記録が無いのですね。
(それゆえ、わたくしは殆どParisから取り寄せた「2008年出版のバイオグラフィー原書」を
出典元として使う事が多いのです。)
『ミの為の詩』(1936)全9曲の仏文翻訳を終えてからの事です。
国内の某ウェブ上の「クレール・デルヴォス」に関する記載を視た処、
どうも腑に落ちない点があり、時代考証について考えあぐねております。
わたくしの過去記事で前述の通り、『ミの為の詩』(1936)は、
新婚当時に妻に献呈した作品でしょう。
しかし国内の上記某記録では「当初、円満な家庭生活だった」とありますが、
全9曲の仏語テクストを訳してみて、余りにも大きなギャップを感じ、
正直なところ驚きました。
この頃から精神の病にむしばまれていたであろう事が読み取れる内容は、
「息子パスカル出産後に妻の容態が傾いてきた。」という記録と照らし合わせてみても
どうもそれ以前から妻の様子に対して、氏は苦悩している様子が伺えますし。
即ち息子の誕生前(1935年前後?)から、1959年(メシアン51歳)の
クレール死去に至るまで、氏は非常に長い時間この事と
葛藤していたのではないかと推察します。
殊に「トリスタン三部作」が書かれた時代を視ても、1940年代後半に集中しています。
(『ハラウィ』(1945)、『トゥーランガリア交響曲』(1946-48)、
『五つのルシャン』(1948)といった作曲年です。)
妻を想う気持ちは、「悲恋に焦がれるも命を落とすピルーチャ
(歌曲『ハラウィ』の主人公女性』)と重なり合うものがあったのでしょう。
更には1933年には下記のような作品も書かれています。
『Fantasie : pour Violon et Piano』(ヴァイオリンとピアノの為の幻想曲』(1933)、
内容的にヴァイオリニストであったクレールの為に書かれた作品だと思われますが、
当時出版されておらず、メシアンの死後に恐らくイヴォンヌが改訂を行って
Durand社から出版されたものと思われます。
仏語原書内のデータを見ますと、作曲年は1933年ですが、
確かに出版年は2007年と在ります。(メシアン没後15年経過した年。)
そのあたりの子細が、手持ちの仏語原書中に記述されているようです。
この三連休(2013/07/13-7/15)にこの個所の原文を読んで行けると良いです。
時間を見つけてやって見ようと思います。
赤坂樹里亜
2013年7月12日~13日 11h00
(* 写真は、オリヴィエ・メシアンと先妻クレール・デルヴォス。
1936年、イゼール県プティシェにて。)