【O.Messiaenによる「テクスト」と「解説文」の和訳、概ね終了
-或る途中経過による解釈と雑感-
Ⅲ Psalmodie de l’ubiquite par amour –Dieu present en toutes chose…
-愛による神の遍在性の朗唱 -全てのものの内に存在する神…】
『三つの小典礼』第3曲目のメシアン自身によるテクストと
その解説文の和訳が、概ね出来てきました。
翻訳にとりかかる前に、解説部分の仏文をざっと斜め読みした時、
或る一文が目に留まったのを印象深く覚えています。
〈以下、引用文〉
「兎角テクストに狙いを定めて私を攻撃した全ての人は…」
との一文です。
無論、「メシアン事件」とまで呼ばれた初演時の
作曲者自身によって書かれたテクストの内容についての
大論争についての記述です。
わたくしはてっきりその後に続く文章には、その批判に関して
多少なりとも反論は書かれているのだろうと、その時は推察したものでした。
しかし予測に反してそうではありませんでした。
メシアンは教会のバラ窓(ゴシック建築のステンドグラスで創られた
円形の教会の窓)の話を例に取って、実に淡々と語っていました。
「バラ窓はどんな事をするだろうか?それはその姿によって教え、象徴を語る。
そこに埋め込まれたペルソナージュによって。
特にバラ窓は無数の色彩の点によって目を奪い、
ついには非常にシンプルな単色に概括し、
ただこう言わせるほどまでに魅入る。
「このバラ窓は青だ」、若しくは「このバラ窓はヴァイオレットだ」、と。
私は他に何も望まなかった。」
つまりこう言う事ではないでしょうか。
「バラ窓」に集積した無数の色彩の要素は、
この『三つの小典礼』を構成する音や言葉と同じ。
そうした音やテクストの集合体は、色彩の集合体である「教会のバラ窓」。
しかしそれを一つ一つ抜き出して「赤と緑と青の光の点と…」などとは呼ばれず、
ただ単に「青いバラ窓」、「紫のバラ窓」と総括され、人々を魅了する。
『三つの小典礼』も然り。テクスト一言一句が何かを語るのでなく、
その「存在(l’etre)」そのものによって何かを教示し、象徴を語る。
作曲者はそれ以上の事は深くは望んでいない。
メシアンは評論者よりも一枚も二枚も役者が上でした。
やはりそれこそが「真の神学者たる所以」である証左なのだと
わたくしは解しました。
批判に心乱される事なく、高次な思想で事を受け止めていた氏の姿に心打たれ、
こちらも何か、憑き物が落ちたように感じられます。
もうじき、清々しい5月の青空と新緑とが眼に映える時候です。
メシアンを識ってゆける歓びを、また改めて感じた次第です。
赤坂樹里亜