O.Messiaenの初期作品を視ていく上で、個人的に目に留まる点が在ります。
それは20歳を超えた時期の氏の作品には、決して明朗とは言えないタイトル
(若しくは内容)を持つ作品が幾つか散見されるという点です。
その生涯を通して、愛に満ちた作品を書き遺した氏にとり、
初期に悲しみの作品が幾つか見つかるというのは何故なのか、
常日頃から考えておりました。
先ずは先日このTime-lineに書きました『 Trois melodies -三つの歌- 』
(1930年 Sop. Pf Durand出版)、『 La mort du nombre -多くの死- 』
(同1930年 Sop. Ten. Vn. Pf Durand出版)、
そして最も顕著だと思いますのは、やはりわたくしが昨年に
口頭発表させて頂きました『 Huit preludes -8つの前奏曲- 』
(1929年 Pf独奏曲 Durand出版)ではないでしょうか。
この作品には最もその兆候が色濃いように感じられます。
この8つの前奏曲中、約半分の作品に、
何等かの秘められた悲話を想わせるタイトルが在る事が気に掛ります。
No.2 『 悲しみの景色の中の恍惚の歌 』 No.4『 死した瞬間 』
No.6 『 苦悶の鐘と告別の涙 』
No.7 『 静寂な嘆き 』 (上記、原語タイトル省略)
恐らくこれは、Messiaen氏19歳の頃にお母様を亡くした影響が
色濃いのではないかと個人的には推察しています。
『Huit preludes No.6 Cloche d’angoisse et larmes d’adieu
-8つの前奏曲 第6番 苦悶の鐘と告別の涙-』
この作品は大きく分けますと、前半の『苦悶の鐘』と後半『告別の涙』の
二部作から成り、前半部分に常に鳴っている「属音のオスティナート」は、
Ravel 『 Gaspard de la nuit -夜のガスパール- No.2 Le Gibet -絞首台- 』の
手法を彷彿とさせる部分でもあります。
しかし決定的に異なる点は、その「保続音的な属音」の上に響く沢山の和音は、
「M.T.L旋法」による「多重旋法(Polymodalite)が編み込まれているように
思われる点です。
3段譜で書かれた譜の上部の和音は、この「多重旋法」によって、鮮やかな色彩感を
醸し出しているところから、『絞首台』のようなグロテスクな響きともまた違った
透明な静寂感を持ち、あたかも「紫色の反物の何処までも拡がってゆくかのような
世界」がそこに存在しています。
一方、このオスティナートは、冒頭はc mollの「g音」のオスティナート、
そしてes mollに転調して「b音」のオスティナート、次にはg mollに転調し
「d音」オスティナートという具合に曲は進んでゆきます。
この幾つかの調に転調しながら出現する「属音によるオスティナート」は、
死者を弔う「葬送の鐘」なのでしょう。
そしてぞっとするような減七和音の連鎖で曲が進行する後半部分は、思うに
「肉親を埋葬する遺族の告別の涙」なのかも知れません。
美しくも物哀しいこの音色に、内々に秘められた若きMessiaen氏の
母との告別の悲しみを、どこか遠い処であたかも
「傍受」しているかのような感覚になりませんでしょうか。
長い事この作品に対して、「楽譜の譜づらでしか音を追ってはいけない」様な事を、
他人から余儀なくされておりましたので、何故こうした悲話が
この『8つの前奏曲』を占めているのか、判然としないままでおりました。
それでも、氏を取り巻く背景が見えてくる事により、「正体の底知れない魔力を
秘めた作品」と恐れることなく、「これらの音たち」と正面から
お付き合いしてゆけそうに思えてきました。
中期・後期に渡り、第二次世界大戦への徴兵や先妻クレール・デルヴォスとの
死別などの、幾らかの受難の人生を送りながらも、我々に「愛と平和」に満ちた作品を
届けて下さったMessiaen氏、そして、愛情を持って優れた後進音楽家を育てながら、
慈愛に溢れた作品を世に送り出して下さったMessiaen氏に、
深く敬意を表したいと思います。
赤坂樹里亜