7月頃から書こう書こうと思っていた事柄が在りました。
しかしながら、なかなかまとめられる時間も無く、10月の声を聞きました。
今日こそは、少しずつ綴ってゆきたいと思います。
O.Messiaen『アッシジの聖フランチェスコ』は、台本から衣装に至る迄、
全てを作曲者自身が手掛け、完成に約8年を要した大作オペラです。
オーケストレーションも圧巻ながら、そのお話は改めて後日にしたいと思います。
「聖人フランチェスコ」を題材として作曲者の手によって書かれた台本には、
随所に示唆に富んだ事柄が存在します。
今日こそはわたくしの最も心に留まった《第2幕・第4景「旅人に扮した天の使い」》
のお話を書きたく思います。
- 或る日、天の使い(劇中の配役ではSop.)は、旅人に扮して修道院を訪れます。
門番のマッセオ修道士に「フランチェスコに逢いに来た」旨を伝えると、
彼は祈祷中だという。
邪魔をしてもいけないので、代理のエリー修道士と面会してはどうかと門番は提案する。
エリー修道士はその時、修道院の計画を文書化している最中であった為、
見知らぬ旅人の訪問に苛立ちながら現れます。
天の使いは尋ねます。
「貴方は怒りで心が乱されているように見えるが…。
救霊予定説についてどう思いますか?老人を追い出したのですか?」
エリー修道士は怒り答えます。
「出ていけ若僧が!おまえの質問になど答えん!」
苛立ってこう言い放ちます。
そこで、門番は天の使いに新たに提案します。
「では、ベルナール修道士に面会しては?」
ベルナール修道士は、旅人を迎え入れます。
そこで真剣に質問に答えようとしながら、はたと気付きます。
「貴方の名は?」
天の使いは厳かに答えます。
「私は遠くから来た旅人です。私に名前を訪ねてはいけません。」
天の使いが静かに去っていったあと、ベルナール修道士は
門番のマッセオ修道士と顔を見合わせて騒然とします。
「今のは天の使いだったのではないか…。」-
この場面でMessiaenは、二人の修道士を対比させて描いていたのでしょう。
最初に現れたエリー修道士は、富と権力を好み、
自己修練を怠っている強欲な人物として、
Messiaenによって描写されているようです。
修道院では責任者代理という立場であるにも拘らず、
天の使いが人間に扮して現れた事を見抜けなかったばかりか、
「救霊予定説」について尋ねられても、自身を高める修錬を怠っている為、
答える事が出来なかったのです。
それで苛立って「見知らぬ旅人=天の使い」をけんもほろろに
追い出してしまった訳です。
次に登場したベルナール修道士は、エリー修道士の対極的人物像です。
日々修行を積んで年を重ねたベルナール修道士は、天の使いの質問に対し、
自身の考えを述べようと真摯に受け答えています。
Messiaenが示した教訓は、こうした場面から読み取れるかと思います。
エリー修道士の生き方、- 即ち、うわべだけを取り繕って権力を欲した氏の姿-
を通して、何かしら現代の欺瞞に一石を投じたのではないかと考えさせられます。
修道院計画を書かねばならないときの動揺ぶりや、
正体を隠してやってきた「本物の天の使い」から真髄を尋ねられても
答えられずに、自己保身とも受け取れる言動から相手を追い出してしまう。
この「えせ修道士」の姿と対極に存在しているベルナール修道士は、
日々自分を高めてゆくことを忘れていない人物です。
そうした堅実な積み重ねが、「見知らぬ旅人」の真の姿を見抜く事に繋がった
という事から、「審美眼は一日にして成らず」という不動の真理を
観る者に深く印象付けるシーンだったように感じます。
Messiaenからのメッセージとして、改めて示唆と教訓とが自己の深淵に浸透し、
襟を正される想いです。
Messiaenの台本には、更に独自の考えが多々盛り込まれていますが、
今日は「第2幕・第4景」のみに留めておこうと思います。
赤坂樹里亜