御無沙汰しております。
こちらは日本的に言いますと、いわゆる「忌明け」をした処で、
復帰に向けて着々と動いております。
その合間に心の安息の為には、ストーブの前に椅子を置き、
じっと聖書を通読したりしていました。
その折、旧約から始めて「出エジプト記」に入った処で、
意外な発見に繋がりました。
- あの「時」は、数年前にさかのぼります。
初めて下記の作品と向き逢った時、
そのタイトルを大変不思議に感じた事をよく覚えています。
《Meditations sur le mystere de la Sainte Trinite
(聖三位一体の神秘についての瞑想)
No.9 Je suis celui qui suis》(1969) 》
全9曲のオルガンのための組曲的作品です。
組曲としてのタイトルは理解できても、最終曲No.9のサブ・タイトルは、
何とも哲学的な言い回しです。
(英語ですと”I am that who am.”でしょうか??)
一体どう訳すのかしら??と、不思議なそのフレーズの力に
圧倒された記憶があります。
それが意外にも、今般聖書を読んでいて判明したのでした。
『旧約聖書 出エジプト記 第3章14節』の引用
”神はモーセに[こう言われた。]、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と
言われ、また、「イスラエルの人々にはこう言うがよい。
『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わせたのだと。[言いなさい。]”
上記は初めて人間(モーセ)に、神がご自分の事を名乗った場面だと
思われるのですが、『わたしはある』という邦訳の言い回しが、何とも気になり、
(恐らくは、邦訳にしがたい構文なのだろうと。)
仏語聖書で同一箇所を引証してみました。
その結果、数年前から気になっていた疑問が氷解しました。
この訳こそ”Je suis celui qui suis”だったのですね。
ユダヤ教の神は、ご自分を『わたしはある』と名乗った。
それがヘブライ語の『ヤハウェイ=わたしはある』として、
固有名詞となっていったのですね。
即ち、この組曲の最終を飾る作品は、
メシアンが「神御自身」の事を謳ったのだと判明しました。
聖書は、旧約・旧約続編・新約含めて、
約2000ページ近くありますが、僅かでも
こうした発見に繋がると、嬉しく思います。
そして《神の顕在の三つの小典礼曲》(1943-44)のテクストの事は
色々と見えてきましたので、
これから、ちょっとしたリズム論の研究に入ってゆかなくてはと
思っています。
赤坂樹里亜
1er Decembre 2013 17h20